その先生は私が小学校5年生の時に新任(新卒)で日野小学校に来られ、卒業までの2年間、私たちのクラス担任の先生になりました。名前は山村先生、滋賀大学教育学部を卒業されたばかりの若い先生でした。滋賀大学時代はサッカー部で、その当時も大学のOBチームでサッカーを続けておられました。小学校では勉強だけでなく、放課後にサッカー教室を開いてみんなにサッカーを教えてくれていました。サッカーの楽しさを伝えたいという先生の一途な気持ちを私も子供心ながら肌で感じてはいたのですが、当時、私はサッカーではなく野球ばかりしていました。「山口はサッカーではなく、野球の道に進む子供だ」と山村先生はきっとそう思われていたと思います。小学校を卒業し、山村先生とお別れした数年後、私も野球をやめてサッカーをするようになり、大学生の時に山村先生に「大学でサッカーをしてます!」という年賀状を出したところ、「うれしい!」という返事が返ってきたのです。山村先生のサッカー教室に参加していた同級生の中で大学までサッカーを続けていた人はおらず、小学生の頃はサッカー教室に見向きもしなかった私が結局「クラスの中で一番最後まで長くサッカーを続けていた教え子」になっていたのです。私と先生の歳の差は12歳くらいですから、私が大学生の頃、先生はその当時まだ30歳そこそこで、いつか近いうちに一緒にボールを蹴りたい!そう思っていました。
ところが、私が大学を卒業して数年後、山村先生は病気で亡くなられてしまいました。小学生の時に先生のサッカー教室で一緒にボールを蹴ることがなかったので、いつの日かもう一度会って一緒にボールを蹴り「僕はこんなに上手くなってるんですよ!」って先生に伝えたかった。それが実現できなかったのが今でも悔しくてなりません。もう少し早く会えていたら... 会いたかった人に会えなかったというのがこんなにも辛いものなのか、その辛さをこの時初めて味わったのです。
山村先生...
「私があれからもずっとサッカーを続けていたのを天国で見てくれてましたか?私が死んで天国に行ったら一緒にボールを蹴りましょう!」
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