2024年11月3日日曜日

◆ もう一度会いたかった..小学校の先生 ◆

  その先生は私が小学校5年生の時に新任(新卒)で日野小学校に来られ、卒業までの2年間、私たちのクラス担任の先生になりました。名前は山村先生、滋賀大学教育学部を卒業されたばかりの若い先生でした。滋賀大学時代はサッカー部で、その当時も大学のOBチームでサッカーを続けておられました。小学校では勉強だけでなく、放課後にサッカー教室を開いてみんなにサッカーを教えてくれていました。サッカーの楽しさを伝えたいという先生の一途な気持ちを私も子供心ながら肌で感じてはいたのですが、当時、私はサッカーではなく野球ばかりしていました。「山口はサッカーではなく、野球の道に進む子供だ」と山村先生はきっとそう思われていたと思います。小学校を卒業し、山村先生とお別れした数年後、私も野球をやめてサッカーをするようになり、大学生の時に山村先生に「大学でサッカーをしてます!」という年賀状を出したところ、「うれしい!」という返事が返ってきたのです。山村先生のサッカー教室に参加していた同級生の中で大学までサッカーを続けていた人はおらず、小学生の頃はサッカー教室に見向きもしなかった私が結局「クラスの中で一番最後まで長くサッカーを続けていた教え子」になっていたのです。私と先生の歳の差は12歳くらいですから、私が大学生の頃、先生はその当時まだ30歳そこそこで、いつか近いうちに一緒にボールを蹴りたい!そう思っていました。

 ところが、私が大学を卒業して数年後、山村先生は病気で亡くなられてしまいました。小学生の時に先生のサッカー教室で一緒にボールを蹴ることがなかったので、いつの日かもう一度会って一緒にボールを蹴り「僕はこんなに上手くなってるんですよ!」って先生に伝えたかった。それが実現できなかったのが今でも悔しくてなりません。もう少し早く会えていたら... 会いたかった人に会えなかったというのがこんなにも辛いものなのか、その辛さをこの時初めて味わったのです。

山村先生...

 「私があれからもずっとサッカーを続けていたのを天国で見てくれてましたか?私が死んで天国に行ったら一緒にボールを蹴りましょう!」


大学生の頃、山村先生から返ってきた年賀状。そろそろ現役引退という文字を見て、引退されるまでに一緒にボールを蹴りたいと思っていました。一緒にボールを蹴れるまで死なないでほしかった...

この写真はクラスメート(男子)と山村先生が卒業直前にサッカーをした時のもの(先生の御仏前に後日お線香をあげに行った際、奥様にこの写真をお渡ししました)。みんなは先生とサッカーをしているのに後列右から3人目の私はサッカーボールではなくバットを触っています。この少年が最終的にはこの中で一番のサッカー選手になるとは不思議なものです...    





2024年11月1日金曜日

50年前、サッカーとの出会い

  子供の頃の夢はプロ野球選手になることでした。父親のキャッチャーミットを狙ってボールを投げ込む、小学校の頃はそれこそ巨人の星の主人公「星飛雄馬」を自分でイメージしていました。それがいつの間にかサッカーに...

 中学生の頃、毎週金曜日の夜に45分間のサッカー番組「ダイヤモンドサッカー」が放送されていました。ヨーロッパのプロサッカーが中心で、前半45分を放送した後、翌週に後半45分を放送するという番組です。当時の日本では考えられないような観客の熱狂の中で行われる試合に引き込まれていっただけでなく、番組のアナウンサーと解説者(金子勝彦さん岡野俊一郎さん)の話が試合の内容に留まらず、その国や地方の文化や歴史などにも触れながら解説されるのがスポーツ番組としては非常にユニークで面白く、どんどんその番組にはまっていったのです。そしてもう一人、ヨハン・クライフというオランダ代表選手の存在です。「空飛ぶオランダ人」と呼ばれていた彼のプレーを見てすっかり心酔してしまったのです。サッカーの練習の時には彼のプレーをよく真似したもので、特にクライフターンと呼ばれるプレーは何度も何度も練習しました。彼が付けていた背番号「14」を私も複数のチームで付けさせてもらいましたが、今でも「14」という数字には特に愛着を感じます。

 65歳になり現役のプレーからは遠ざかりましたが、テクニックの紹介動画を見ていると背番号「14」をつけて走っている自分の姿を思い浮かべてしまいます。

2004年関西シニア大会 滋賀選抜 vs 奈良選抜(びわこ成蹊スポーツ大学グラウンド)



2024年10月31日木曜日

おめでとう!ドジャース、おめでとう!大谷選手

 MLB ワールドシリーズ第5戦

ニューヨークヤンキース 6-7 ロサンゼルスドジャース

 ドジャース勝ちましたねぇ。大逆転ですかあ、スゴイです。大谷選手は先日の怪我の影響か、今日もあまりいい出来ではなかったですが、今まで頑張って素晴らしい成績を残してきた甲斐がありました。今日は再びヤンキースが勝って第6戦でロサンゼルスに戻ってホームで優勝を決めるのかな...ということも想定していたのですが、見事な逆転劇でした。二十代のころはプロ野球もよくTVで見ていましたが、もう今ではほとんどプロ野球の試合をTVで見ることはなく、野球を見ると言えば高校野球くらいかな。今夜はたぶん日本中がドジャースの優勝に祝杯をあげることでしょう。ニュース番組もドジャース&大谷選手のニュース一色で染まりそうです。私も今日は大谷選手に乾杯をしたいと思いますが、その次は来月行われる2026ワールドカップサッカーのアジア最終予選(15日 インドネシア代表ー日本代表、19日 中国代表ー日本代表)に気持ちを集中したいと思います。2つともアウェイゲームなので簡単ではないかもしれませんが、パワー100%で応援します!

2024年10月22日火曜日

姫路城へ

 天橋立から始まった反時計周りのきまま旅は、鳥取砂丘を訪れたあと湯村温泉で一泊。最終日は湯村温泉から兵庫県を南下し、姫路城を訪れました。白鷺城とも呼ばれるこのお城はその名のとおり、白色が基調になっています。お城には松本城や熊本城の黒系お城と姫路城や彦根城などの白系のお城があります。姫路城を間近で見るのは初めてでしたが、美しく雄大です。天守の一番上(天守6階)まで上がらせてもらいましたが、急で狭い階段で登るのは結構大変でした。昔の人は小さかったということですかね?私もそうでしたが、大柄な外人さんたちも背中を丸めて頭を打たないように慎重に移動しておられました。日野町から出発した今回の旅、トータルの移動距離は600kmを超える旅でした。

 
とにかく規模が大きいお城です

合成写真ではありません


2024年10月21日月曜日

餘部駅から鳥取砂丘へ

 餘部橋梁にやってきました。今から40年近く前、強風に煽られた列車がこの餘部駅のすぐ横の鉄橋から転落し、多くの犠牲者を出した事故がありました。高校生の頃に夜行列車に乗って「知らないうちに通過した」経験はありましたが、お日様が高いうちにこの鉄橋を生で見たことはなく、以前から是非一度訪れたいとずっと思っていました。その思いを叶えるべく(車での訪問でしたが)やっとのことで訪れることが出来ました。当時から鉄橋も線路も新しくなっていますが、古い橋脚や線路も部分的に残されています。到着してすぐ、慰霊碑に手を合わせ、犠牲になられた方々のご冥福を遅まきながらお祈りしました。鉄橋の上にある「空の駅」には1時間に1本くらいしか列車が来ないのですが、時刻表を確認し、とりあえず1本だけ列車の姿を見届けて駅を離れました。その後、鳥取砂丘まで足を運び、初めて見る砂丘の圧倒的な広さに感激。思った以上に砂が柔らかくて歩きにくかったのですが、日本海とのコントラストは抜群で、眼前に広がる美しい日本海をいつまでも見つめる自分がありました。






2024年10月20日日曜日

44年ぶりの訪問

舞鶴からフェリーに乗り、宿も十分とらずに北海道へ2週間の放浪の旅に出たのは今から44年前の大学生の頃。舞鶴からフェリーに乗る前に近くにある天橋立に立ち寄ったのですが、もう全くといっていいほどどんなところだったか覚えていません。その天橋立を44年ぶりに訪れました。笠松公園側へ行き、リフトに乗って上まで行ったのですが、マジで絶景です。44年前は上まで登らなかったので覚えてないのかな...そんな風に思います。その後、車で海辺の道をクネクネと進み、竹野海岸にやってきました。風が強く、日本海は荒れまくっています。今夜は竹野海岸で一泊し、明日は朝から餘部駅(40年近く前、列車が鉄橋から転落するという大きな事故があった)に向かう予定です。



2024年10月19日土曜日

液晶TVの礎となった技術を支えた男たち

 1990年頃といえば液晶ディスプレーの黎明期。当時はパソコンのモニターが中心でしたが2000年前半になると一般家庭にも液晶TVが普及し始めます。その液晶ディスプレー全盛期の頃、S社・彦根事業所で液晶製造装置のハードウェア&ソフトウェア設計をして国内外を飛び回っていた電気設計グループOBの飲み会が彦根市内であり、出席してきました。当時、液晶ディスプレーの製造技術で世界のトップを走っていたメンバーも今はみんな60代半ば、私のボスはもう76歳です。飲み会では、液晶や有機ELなどの薄型TVの先駆けとして日本だけでなく世界と戦ってきた時の逸話や武勇伝、おまけに今の自分の病気の話?などで話に花が咲き、あっという間に時間が過ぎてゆきました。短い時間でしたが、笑いの絶えない楽しい時間になりました。



2024年10月15日火曜日

とうとう失点したけど

 2026W杯アジア最終予選

日本代表1-1(0-0)オーストラリア代表

予選が始まってからまだ1点も取られていない日本代表。このままいつまでも失点しないなどということはない...とは思っていましたが、まさかオウンゴールが初失点になるとは思いませんでした。不運な形で先制されましたが、その後も落ち着いていたと思います。オーストラリアは非常に大柄な選手を集め、5人のDFとその前の4人のMFでブロックを作ってスペースを消しにきていました。中央突破はなかなか難しく、サイドからの攻撃を繰り返す日本は交代出場した中村敬斗が巧みなステップで左サイドを切り裂き、相手のオウンゴールで同点に追いつきました。結局4連勝とはいきませんでしたが、オーストラリアにはほとんど決定機を与えず、先制されながらも追いついて勝ち点1を積んだことはポジティブに捉えればいいのかなと思います。ただ、オーストラリアの激しいプレスで三笘や久保がマイボールを失う場面が何度か見られたので、そこはしっかり反省しておいてほしいです。来月はインドネシア、中国とのアウェイ2連戦になります。コンディションを整えて挑めば大丈夫だと思いますが、サッカーはバスケットボールなどの他の球技に比べて番狂わせが起こりやすいスポーツなので、そうならないよう気を引き締めて平常心でプレーしてほしいですね。早い時期に2位以内を確定させれば藤田や高井、関根などの若い選手を使うことも出来るようになるので是非この先も勝ち続けてほしいものです。

2024年10月14日月曜日

「光る君へ」を観て感じる我が身

 NHKの大河ドラマ「光る君へ」で主人公のまひろ(紫式部)が越前和紙の上に物語や手紙を書く場面がよく出てきます。あの美しい文字の主はてっきり影武者だと思っていましたが、吉高さん本人が書いてたんですね。ビックリです。紫式部の書く文章は独特の比喩表現も見受けられ、短くても気持ちが伝わる粋な文章に感心させられます。自分は?と言えば、近頃ではペンを走らせるよりキーボードをたたく方が圧倒的に多く、文字数が多くなっても苦にならなくなっているせいか、文章が長くなってしまう傾向にあります。最近では手書きの手紙もすっかり書かなくなってきており、字も下手になってきたように思います。若い頃は曲がりなりにも筆で「段」を持っていたんですけど、手書きで手紙を書かなくなるとダメですね。

 ところで手紙と言えば、先日たまたま観ていたTV番組でMCの方がある女優さんに「男性から手紙をもらったらやっぱり嬉しいですか?」と質問された時にその女優さんが「手紙は重たく感じるのでイヤ!嬉しくないです」と答えておられました。あーっ、やっぱりそうなんや..書いてる本人はそんな重たいつもりでなくてもそのニュアンスまで伝わるように書くのはなかなか難しいと思うし、結局ほとんどの場合「重たいからイヤ!」って思われるんでしょうね。紫式部のように短い文でスマートに伝える能力があるといいのにと自分でも思います...

2024年10月12日土曜日

日野町ゴルフ協会コンペ 2024年秋

 日野町ゴルフ協会コンペに参加してきました。このコンペは日野町の3つのゴルフ場(日野ゴルフ倶楽部、蒲生ゴルフ倶楽部、近江ヒルズゴルフ倶楽部)持ち回りで年に3回行われ、参加者が毎回250名を超えるという大きなコンペです。今回は日野ゴルフ倶楽部を会場に263名の参加者のもと行われました。前回の大会で3位に食い込んだ(まぐれ!)ので今回もそれなりのスコアを目指していましたが、前半の11番ホールでラフにつかまったボールを発見できずにロストボールになるなど、午前中はちょっと我慢のゴルフ。午後は何とか持ち直しましたが、2大会連続の入賞はなりませんでした。今回は記念大会ということで女子プロやプロの卵の研修生などが一緒にラウンドしてもらえるというイベント付で、私の組には大学を出て間もない若い研修生が付いてくれました。その場でいろいろ教えてもらえるはずだったのですが、おじさん4人はかわいい研修生にメロメロ、緊張してミスを重ね、ゴルフどころではありません?!でした。でもまあ、たまにはこんなゴルフも楽しいものですね。次回のコンペは来年の4月です。








「犬猪会」忘年会

 「犬猪会(いぬいかい)」という小学校の同級生の会があります。昭和33年4月~34年3月に生まれた同級生(現在66歳または65歳)の会で、干支が犬と猪であることから「犬猪会」と命名されました。その犬猪会にはゴルフの会もあります。年の暮れ、お昼にみんなでゴルフを楽しんだ後、夜は恒例...